単極性うつ病は存在する?②

  • 単極性うつ病

では、はたして単極性うつ病は存在するのでしょうか?私は以下のように考えています。

それはテレンバッハの『メランコリー』をより明確に説明することを目指した私の理論(『小野博行:抑うつ症例における身体症状と出社困難の関係について.精神医学47(7);717 − 723,2005』)を活用した説明方式になります。

その理論の中核を説明しますと、たとえば、会社員の場合、役割が与えられており、その役割の遂行を求められています。すなわち、職場とは、役割遂行がうまく果たされればプラスの評価(賞)が与えられ、うまく果たされなければマイナスの評価(罰)が与えられる場になっています。

 

一方、人間の精神構造には報酬系があり、自分の行ったことに対して、「よくやった!」とプラスの評価(賞)を与えたり、「ダメじゃないか!」とマイナスの評価(罰)を与えたりします。通常の安定した精神状態とは、この賞—罰のバランスが、ちょうどシーソーが傾かず、地面と平行を保っているような状態と言えるでしょう。

 

役割遂行がうまく果たせないとき、職場から罰が与えられるだけではなく、それに伴って精神構造における「賞—罰バランス」が罰よりに傾いていきます。すなわち、人間とは、精神構造中の「賞—罰バランス」と外界における賞罰を下す場とが、役割を媒介項として連結・連動する存在である、と言えます。

 

役割が何らかの理由で十全に遂行できないことが続くと、職場から罰が与えられ続き、「賞—罰バランス」も罰よりに傾くことが持続して、その挙げ句、罰の強度はピークレベルに接近していきます。

 

このピークレベルの様態を比喩的に説明するならば、これからテニスでシングルスの試合を行うとする。そして、負けた方は死刑とする。しかし、それだけではなく、試合中に髪の毛一本でも落としたら死刑とする。

 

このような条件のもとで試合を行うならば、試合で負けることも髪の毛一本落とすことも、死刑という同等のピークレベルの強度の罰が下されることになり、通常であれば、試合に勝つという目標は、髪の毛一本も落とさないという些細なことより優先されるべき目標であることは自明ですが、上記の条件のもとでは事情は一変し、勝ちに結びつくプレーを行うことと髪の毛を落とさないように動くという2つの行動に関して、優先順位が付けられなくなります。行動に際して優先順位が付けられないということは、何から手をつけたらいいのかわからない、行動の選択肢の中で何を選択していいのかわからないという状態を意味しており、したがって、決断不能、行動停止の状態に陥ります。

以上が私の理論の中核ですが、一方、テレンバッハは、メランコリーという病気の中核的な現象を「リズム性の変化」(H.テレンバッハ:木村敏訳『メランコリー—改訂増補版—』。みすず書房;1985,p52)としています。

 

メランコリーという病態については、ヒポクラテスの黒胆汁から始まって、歴史的な検討を綿密に行っている中で、「シラジは、アリストテレスのメランコリー理解を、今日のわれわれのメランコリー理解と同一視している。というのは、彼はメランコリーと<<憂鬱>>(Schwermunt)とを同義にとっているからである」(同書p41)とありますので、一応、単極性うつ病と解釈していいのではないかと思います。

 

一方、「リズム性」とは何かということは難解で私も明確に説明することはできませんが、その現れの一つとしてサーカディアン・リズム(人間の心身の活動が24時間の周期に調整されているあり方)が挙げられていますので、サーカディアン・リズムをイメージするとわかりやすいかもしれません。

 

テレンバッハはメランコリーへと突き進む特有の状況(これを「前メランコリー状況」と呼んでいます)のあと、不連続的な形でメランコリーが発症する、と論じています。

そしてメランコリー発症の開始状況を、「去就の定まらない二者択一の状態で、最終的な決断に到達できないというありかた」(同書p297)、「あるひとつの仕事が手につかなくなってしまう。それは、もうひとつ別の仕事も、さらにまた別の仕事も、まったく同じだけの緊急度をおびてしまうからである」(同書p300)、「前後関係は、どちらつかずでいっこうに進展しない交互関係になってしまい、時間的存在に含まれる発展性格を標識とした順序という形では進まなくなってしまう。去就不明の並列関係の中で、いっさいの動きが停滞してしまう」(同書p302)と述べています。

 

このあり方は優先順位が付けられない状態を示しており、テレンバッハは、優先順位が付けられなくなった時点でメランコリーが発症したとみなしているわけです。

 

しかし、優先順位が付けられなくなった時点、すなわち「賞—罰バランス」の傾きがピークレベルに至る以前に、症状の出現はないものなのでしょうか?

 

ピークレベルに至らずとも、罰よりに傾いて行く過程は存在するわけですので、その強度を増していく罰よりの傾きは、「自分自身を罰する傾向=自己処罰傾向、ないしは自責的傾向」をもたらすとともに、それに由来する不安、抑うつ気分、希死念慮という形で現れる可能性はないのでしょうか?

もし、その可能性があるならば、メランコリー発症=「リズム性の変化」の前の段階、すなわち前メランコリー状況での発症はありうることになります。

しかも、テレンバッハはメランコリー開始状況以降の病状をどのように把握しているかというと、「そこからさらに進むと、状況が抑止における行為不能(Nicht-mehr-handeln-können der Hemmung)へと変化したり(症例34、二八二ページおよび症例35、二九九ページ参照)、逆にいわゆる焦燥状態における空転の増大へと変化したり(症例3、一五九ページおよび症例16、一九〇ページ参照)しうることは明らかであるけれども、これはもはやわれわれの研究の対象外のことである」(同書p303)

 

と述べており、抑止、焦燥状態などの出現には言及してはいても、それ以上は検討しない、という潔癖な姿勢を表明しています。

 

すなわち、テレンバッハの理論の中では、自責、不安、抑うつ気分、希死念慮などの症状発現メカニズムについては言及されておらず、これらの症状が出現する時期は不問にされています。

そこで、自責・不安・抑うつ気分・希死念慮などの症状が出現している時期においても、「リズム性の変化」が生じていないと仮定するならば、「リズム性の変化」が生じない限り双極的な気分の変動も生じないでしょうから、ここに単極性うつ病の存在の可能性があります。

 

ただ、テレンバッハを参照しながら議論をする上で複雑なのは、「リズム性の変化」はメランコリーに特徴的な現象ですので(同書p52)、メランコリーを発症していない段階である前メランコリー状況においては「リズム性の変化」は生じないとテレンバッハは考えているのであり、かつ、前メランコリー状況ではまだメランコリーは発症していないのだから症状は出現しない、ということになります。

 

したがって、前メランコリー状況であっても一部の症状は出現するが「リズム性の変化」は生じない、と仮定することはテレンバッハの理論の重要なポイントを否定することになります。

しかし、私には「リズム性」がテレンバッハによって明確に定義されているとは受け取れず、「リズム性」をさらに深く考察し、さらに明確に規定することができるならば、前メランコリー状況において「リズム性の変化」は生じないがうつ症状の一部は出現する可能性について、整合的に説明できるのではないかと考えています。

 

「リズム性」の解明こそが単極性うつ病の存在について、正しい解答を与えるでしょう。